炎 学生時代の思い出

(懐かしの容身館)

私は昭和47年4月京都の私立大学へ入学しました。当時はまだ学生運動が盛んな時でした。

最初の住まいは下賀茂神社近くの食事つきの学生専門の寮でしたが、ギター持ち込み禁止という厳格な規則があり、

四条御池の容身館という学生専門のアパートに引っ越しました。

私の部屋はプレハブの大きな倉庫を6分割した簡易な造りで、広さは畳で6畳と板で3畳 計9畳と館では広い間取りでしたが、

家賃は格安の月 9千円でした。

もちろんトイレ、炊事場、洗濯機(有料)は共同で使用し、お風呂は近くの銭湯を利用します。全体では200名位学生が住んでいたと思います。

 

私の左隣の住人は花園大学の人で、何でもコートに隠していたカンニングペーパーが見つかってしましい、その年は学校へ行ってもどうしようもないということで、何回か夜の祇園へ連れていってくれました。

右隣の住人は京都外国語大学の応援団長で、夜中に「ちんちろりん」を興じている声が聞こえました。

その団長がどこかへ引っ越すときに、「大概、俺の隣人は、俺の引っ越す前に引っ越すんだがね」と、最後に私へ言って行きました。

私の部屋には、四条大宮の楽器店から月賦で購入したピアノとギターがあり、友人とよく騒いでいたのも、

彼の引越しの原因だったかもしれません。

 

それと、この館では毎晩麻雀が5卓位開帳され、私の部屋も広かったので、住人がよく集まりました。

2抜けの時に仮眠はしますが、ほとんど徹夜で麻雀をやって、朝9時からパチンコへ行くという強者もたくさんいました。

最強の住人は、麻雀では負けてもパチンコで挽回しながら、4年間ほとんど大学へは行かず、結果として、中退し地元へ帰ってしまいました。

とにかくいろんな学生が住んでおり、赤ヘル(革マル)白ヘル(中核)黒ヘル(ブント)他、いろんな活動家もいました。

山口の国守さん、長崎の松林さん、北海道の山本さん お元気でしょうか?

 

(購入したピアノ)

当時はまだ学生運動が盛んで休講も多かったことと、仕送り月1万円という苦学生でしたので、色んなアルバイトをしました。

南9条のメッキ工場、二条城近くの工員一人の染色工場、京都駅近くにある中央市場の乾物問屋、ビニールテント施工工務店、近畿放送のAD、仕出し屋での釜洗い、大型トラックの助手等々

 

そんなアルバイトに励んでいる時、四条大宮の楽器店(きんこう楽器)に展示してあるアップライトピアノが欲しくなり、

月賦で購入することにしました。

その小さめのアップライトピアノは容身館の私の部屋の板の間に鎮座することになりました。

友人が私の部屋に入ると、びっくりして「どうした?」と呆れていました。

 

「Let it  be 」とか 「ある愛の歌」とかを下手くそに弾いていると、2階に住んでいる大谷大学の学生さんが訪ねてこられ、

歌声喫茶 炎 でピアノ伴奏をされている先生を紹介して頂きました。

その大谷大学の学生さんのマーちゃん(久保田さん)は卒業後大分のお坊さんになられましたが、当時は歌声喫茶 炎で ドラマーとして働いておられ、超人気スターでした。

 

(Pops ピアノの 恩師 浦辻 進氏)

昭和48年 マーちゃん(久保田さん)は私を四条河原町の歌声喫茶炎へ案内し、浦辻 進氏を紹介してくれました。

ステージのグランドピアノでLet It Be のさわりを弾いたり、基本的な指使いのレベルを確認した後で、

深草の住所を教えて頂き毎週通うことになりました。

先生から与えられた教則本は、新興楽譜出版社 昭和48年1月1日発行の20ベスト・ピアノ・ヒットで最初のテーマ曲は

「白い恋人達」でした。

先生のピアノは、映画「愛情物語」のピアノ演奏を担当したカーメンキャバレロの奏法に似た素晴らしい音色でした。

数ヶ月学んだ後、先生のピアノ奏法をなるべくマスターしたい思いもあり、歌声喫茶炎でアルバイトをすることにしました。

当然、ピアノ伴奏ができる技術はありませんでしたが、炎のもう一人のピアノ伴奏を担当されていた吉井徳二氏がエレクトーンを

担当して頂き、私はピアノをガチャガチャ鳴らすというステージ構成になりました。

 

(歌声喫茶 炎 でアルバイト)

歌声喫茶 炎は、四条河原町の丸玉パチンコの2階にあり、細い階段を上っていきます。ステージは山小屋風でグランドピアノ、

エレクトーン、ドラム、ベース、ギター等の楽器が設置されていました。

客席は300席くらいでしょうか?飲み物のサービスは瓶ジュースをストローで飲むというスタイルでした。

メンバーはリーダーの中山さん、ピアノ伴奏の浦辻先生、エレクトーンの吉井先生、その他 約15名の学生アルバイトで

構成されていました。

 

メインステージは8時からの30分、中山リーダーの楽しいトーク、ハッピーバースデイタイム、浦辻先生の曲当てクイズ、

マーちゃんのドラムソロ等の演目があり、賑わっていました。

フォークソングのステージもあり、アリス、かぐや姫等の曲を演奏していました。

 

炎の歌集をリーダーがお客さんと一緒に歌うのですが、その時の流行している歌も歌っていました。

 

当時のアルバイト学生で記憶しているのは、ステージで歌って司会をするリーダーの萩尾さん、川戸さん、徳永さん、貴島さん、陽子さん、

ドラムの久保田さん、倉橋さん、野口さん、高橋さん、ギターの関さん、加藤さん、フォークの谷村さん、田川さん、山下さん、阿知波さん、瀬戸さん、その他 数名いました。(ご免なさい、名前の記憶も不確かです)

 

陽子さんは、小泉陽子として今も歌声喫茶シンガー、ジャズシンガーとして活躍されています。

 

炎の近くには、「とみ寿司」というリーズナブルで美味しいおすし屋さんがあり、生意気にアルバイトの給料日には、毎月通っていました。

当時のアルバイトの時給は、250円程度だったと思います。

 

なんせ、6時間くらいの拘束されますが、ステージに立つのは1時間くらいで、あとの仕事は切符販売、飲み物提供を分担する程度でした。

 

(歌声喫茶 炎 改修工事 と 閉店)

同じ昭和48年の夏休み前後でしたか、山小屋風のイメージを一新したおしゃれな炎に生まれ変わるために、数ヶ月間お休みとなりました。

この間、私の9畳の部屋はビブラホーン等の楽器で埋め尽くされていました。

改修工事も無事完了し、ゆったりとした椅子でお酒も販売するという従来の歌声喫茶とは全く違うお店に生まれ変わりました。

しかし、昭和50年の後半でしたか、突然、炎は閉店となりました。

 

歌っていた流行歌で思い出深いのは、

 

昭和48年 神田川 わたしの彼は左利き てんとう虫のサンバ 若草の髪飾り

昭和49年 赤ちょうちん ふれあい 夜空 私は泣いています

昭和50年 22才の別れ シクラメンのかおり 時の過ぎ行くままに 私鉄沿線 

 

*平成15年9月10日 中山隆氏は72歳でご逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

2010 - present
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熱い思いを『PIYOKO版jazzpiano』 - PIYOKO
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